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2006年10月17日 (火)

今日は母の命日だ。

斉藤氏のブログに久々に訪れたらプロフィールに
「世田谷区立弦巻小学校6年3組卒」
と追記されていて、今朝見て思わず噴き出してしまった。

氏は私の小学校6年の時の同級生だ。
なんだか無性にこの斉藤氏に会いたくなって
(他の面々とももちろんだが)、昨年同窓会を開いた次第。
会ったのはもちろん20数年ぶりだった。

氏を捕まえるのは実は結構苦労して、ご実家を訪ねたら
家が無く、家屋新築中の工事現場と化していた。
んでその工事看板から建設会社を経由してご実家の
方と連絡をとり、そこから氏の携帯を教えてもらったのだ。

笑えたのがいきなり彼の携帯に電話して

「俺だよ俺、
 たかぴーだよ!」(実際は苗字を名乗った)

と言うと、きょとんとしたレス。

「あの、たかぴーさんって、、、
 どちらのたかぴーさんでしょうか」

確かにいきなり苗字だけを言われてもピンと来ないだろう、
私がバカだ。

「俺だよ俺。
 弦小の6年3組の時の。
 俺だよ。
 たかぴーだよ」

と付け加えると、それだけで充分だった。
次のレスはおーおーおーおーおーおおー、久しぶり!なんだよなんだよ!
と変わり、よく分ったなあ、この番号(携帯)と感心された。

斉藤氏は勉強がよくできてお受験組みだったので
中学からは別れてしまった。私は公立へそのまま進んだので。

氏の思い出はいろいろある。小6年の時のクラス担任がとてもいやな
先生だったのだが、彼も多分に漏れずその先生とそりが合わず
事ある毎にもめていた。
ある日、チョークで黒板にいたずら書きをして遊んでいると
激怒された。

 何をしてるんだ!
 勝手にチョークを使って遊ぶんではない!
 これは学校のもの!
 いたずら書きなんかに使うもんじゃあ、ない!

女性の教師だったが当時50過ぎくらいだったろうか、
ヒステリックでとにかく厳しいったりゃありゃしなかった。
しかし斉藤氏、怯まない。

「学校のものったって、
 税金で賄われているものじゃあないか。
 でもダメだっていうんだったら、
 じゃあ自分でチョーク持ってきて書こう。
 んなら文句無いだろう」

翌日、本当に氏はマイチョークを持ってきた。
そしてそれでいたずら書きをして遊んだ。
先生はそのことでは何も言わなくなったが、叱られることは他のことで
ずっと続くのであった(笑)。
 
 
そんな斉藤氏のブログ。拝見していて少々驚いたことがあった。
お母様が少し前に他界されたようだが、その折のこと。
危篤となったお母様、開いた口から管をテープで固定され、
心臓マッサージにてかろうじて生きているという状態だったそうだが、
それを見た斉藤氏、あまりに可哀想だったので
心臓マッサージをやめるよう医師に依頼したのだそうだ。
「あまりにみじめ」と思ったそうで
お母様はそのまま息をひきとられたそうだ。

同様のこと、私も経験をしている。
97年4月のある夜、危篤の知らせで車で妻と
母の入院先の病院へ急行した。
ベッドの上で手足を大きくもがき、やはり口に管を通され
目を大きく見開く母がいた。
専任の医師が心臓マッサージを続けていた。汗だくだった。
何人かの看護婦さんが一生懸命やはり汗だくになって
母の両手両足を押さえようとしていた。
私はその時叫んでしまった。

「がんばって!おかあさん!」

一縷の望みでもと思った。正に悲痛な叫びだったのかもしれない。

「俺だ、俺だよ!おかあさん!
 だあきだ、だあきが来たんだよ!
 だから!
 がんばって!
 がんばってよ!」

忘れもしないそのもがき喘ぐ母、首を少しこちらへ向けると
その黒目がほんの少し、私をとらえたのであった。
もちろんそれは偶然のことと思う。
しかしこの場を凌いだとしても実は医師から

「余命、長くて半年」

と宣告されていたので、蘇生したとして先は見えていたのだ。
斉藤氏曰くお母様の心臓マッサージを止めてもらったことを
「臆する決断」だったと仰ってるが、
その通りだろう。
私は先が見えていたのにもかかわらずその「決断」を
思い浮かべることすらできなかったのだから。

母は他界前、確か9月だったと思うが
入院先の病床でこう私に言ったことを覚えている。

「テープを、テープを切って・・・」

私には何のことかすぐ分った。が、あえて聞きなおした。

「テープ、なんて、、、
 なんだい、、、
 なんの、テープだい?」

よく聞き取れない声で母は言った。

「延命の、テープよ。
 テープを、切って。
 お願い」

その時の母の延命措置を止めるのは簡単なことだった。
心臓に入れられたペースメーカーを切ればそれで済むことだった。
母の心臓はもうペースメーカー無しに正常に稼動を続けることは
できないからだった。

その時は特に意識していなかったが、のち思い返して驚いていたのが
医療費の問題だ。ばかにできない、母の3月に入院してから
その時までにかかった費用は軽く1千万円を越えていた。

翌10月、親族の方に集まって頂きたいと、専任の医師から
話があった。
行くと専任の医師とその上司であるという高齢の医師と
数人の看護婦さんがいた。

  延命の措置は、もう止めましょう。。。

そう高齢の医師から話があった。

  回復へ向かうことはありえません。。。

姉は泣き崩れた。
私も涙が止まらなかった。分ってはいても、ほんの、0コンマ何パーセントかでも
母が元通りの母に戻ってくれる、そんなありえもしない望みを
捨てきれなかったからかもしれない。

他界するその日、仕事の合間をぬって私は日赤に足を運んだ。

  今日はかなり悪い。

母の調子を医師からそう聞いた。
しかし私は打ち合わせに戻らないといけない。

「今、ね、仕事中なんだ。
 これから、大事な打ち合わせがあるんだ。
 だから、打ち合わせが終わったら、また来る。
 また来るから、ね。
 だから、また会おう、ね」

そう母の手を握って言い、病室を後にした。
母が私の言葉を目を見て聞いてくれた、それが最後だった。
浜松町の清水建設本社で打合せを終え、病院に再び足を
運んだのは夜7時を過ぎていた。
医師から言われた。

  今夜は、やまかもしれません。

その夜、母は静かに、息をひきとった。

延命についての医療問題。実に難しい問題である。
そこに万事共通の解決策などない。本人、そして肉親、愛する人が
その時どう対処をお願いするか、だ。
今日は母の命日だ。感慨深く斉藤氏のブログを拝見した次第である。

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